文:斎藤敬子 写真:斎藤敬子、函館市中央図書館、國分知貴 編集:MKTマガジン
屈斜路コタンに暮らし、屈斜路をこよなく愛する齋藤敬子さんによる「カムイ」にまつわるエッセイ。カムイとはアイヌ語で「神」を意味します。アイヌの人々は、あらゆるものに「魂」が宿っていると考え、例えば植物、動物、火、水、道具でさえ、それらすべてがカムイ(神)なのです。感謝、共存、共生。アイヌの精神世界には、現代を生きる我々にとって忘れてはならない大切なことが詰まっているように思います。
今回の記事は「アイヌと温泉」。アイヌにとって温泉とはどのような存在だったのか。どのように関わっていたのか。敬子さんが綴るカムイの物語にどっぷりと浸ってください。
温泉にもカムイがいます
MKT(摩周屈斜路)トレイルは、阿寒摩周国立公園内にあります。今年の12月4日に指定90周年を迎える、日本で最も歴史のある国立公園の1つです。今年の6月、日高山脈襟裳十勝国立公園が新たに仲間入りし、日本の国立公園は35か所になりました。それぞれが、他に類を見ない特徴的な地形や自然環境が広がっているわけですが、環境省はココ阿寒摩周国立公園の特徴として、大きく3つ=「火山」「湖」「森」を挙げています。私は、さらに「アイヌ文化」を加え、「どこを歩いても、この4つの魅力がたくさん詰まっています!」とご案内させていただきます。
日本は温泉天国といわれますが、それだけ火山が多くあるということにもなります。川湯温泉街から屈斜路湖畔へ続くMKTトレイル沿いでは、仁伏(日帰り入浴施設のみ)、砂湯(湖畔の砂地を掘ると温泉が湧き出る)、池の湯(混浴露天風呂あり)、コタン(気持ち男女別になっている露天風呂あり)、和琴(混浴露天風呂あり)と次々に温泉地を通ります。屈斜路湖が、火山活動によってできたカルデラ湖であることを実感できます。
先住民アイヌも、「ヌー コㇿ カムイ」を大切に扱い、敬って生きてきました。アイヌ語のヌー コㇿ カムイは、日本語に訳すと「温泉の神」。アイヌの入浴を引き受けるだけではなく、むしろそれ以上に重要な役割があったのです。
松浦武四郎さんも記録した「池の湯」
現在の阿寒摩周国立公園域を詳細に書き記した最古の文献は、1858(安政5)年にこの地を踏査した松浦武四郎(※1)さんによるものとされています(余談になりますが、私の相方のご先祖さまイソリツカラは、武四郎さんを屈斜路湖上へ案内したアイヌとして、名前が記録に残っています。単なる歴史上の人物ではなく、親しみを込めて私と相方は武四郎“さん”と呼んでいますので、ご理解ください)。
武四郎さんは著書「久摺(くすり)日誌」の中で
-小舟で湖に出て、岸にそって東の方を廻ってみた。このときふと思い浮かんだことがあって 「汐ならぬ 久寿里の湖に 舟うけて 身も若かえる ここちこそすれ」などと口ずさみながら、コムネサンケ、フツタイなどというところを過ぎて、湖の東側の温泉についた。これは岸に巾二十間ほどの池になっており、底は岩盤で、その間から温泉が吹き出していた。ここにも楡の木の皮がたくさん浸してあった-(現代語訳・丸山道子)
と、屈斜路湖上から見た「池の湯」について記録しています。
以前、丸一日かけて池の湯の湯をポンプアップして湖へ流し出し、底を露出させてデッキブラシでこする清掃を、仲間たちと手掛けたことがありました。武四郎さんの記述どおり、大きな岩盤が辺りを占め、隙間から温泉が吹き出すようすを目の当たりにし、時空を超えた感動で私の心は揺さぶられました。
※1 松浦武四郎:1818~1888 三重県一志郡須川村(現・松阪市小野江町)生まれ。28歳から41歳までの間に計6回、蝦夷地踏査を行い、記録した内容を出版物や地図にして出版。それらの功績により1869(明治2)年、開拓判官となり蝦夷地に代わる名称として「北加伊道」を含む6つを提案した。「北海道の名づけ親」と称される由縁となる。
入浴だけではない 温泉の重要な役割
浸してあった楡(ニレ)の木の皮が物語ること…これはアイヌの暮らしにとって必要不可欠な作業でした。木綿が手に入るようになる前、アイヌの衣服は樹皮から作られていました。その原料となるのが、アイヌ語でアッと言うオヒョウニレの樹皮です。
春になると、男性も女性も総出で、山へオヒョウニレの樹皮を剝ぎ取りに行ったそうです。木のカムイに挨拶した後、枯れないよう丸裸にしないことに気を付けながら。そうやって剥いだ樹皮(内皮)はまず、水分に浸して渋を取り除くとともに柔らかくすることから始まります。それから繊維質を取り、細く裂き、縒って糸玉を作り上げ、それを織って反物に仕上げていくという、実に手間も時間もかかる工程を経て、衣服に姿を変えたのです。
沼や川、海水などに比べると水温が高く、薬効成分により防虫効果もあったのではないかとみられた温泉が近くにあるコタン(「集落」を意味するアイヌ語)は、さぞ羨ましがられたのではないでしょうか。知里真志保(※2)は、池の湯がアイヌ語で、「アッ・ホロ・ト=オヒョウニレの樹皮を・浸けておく・沼」と呼ばれたことを著書「分類アイヌ語辞典」の中で特筆しています。更科源蔵(※3)は、「火の神の上でわかした風呂に入るなどということは、昔は考えも及ばないことだった。火の神に尻をのせることだからである」と、アイヌの思想観を伝えています。
※2 知里真志保:1909~1961 幌別郡登別村(現・登別市登別本町)生まれ。自身もアイヌの言語学者。「分類アイヌ語辞典」「地名アイヌ語小辞典」「知里真志保著作集」などを刊行、アイヌ語研究のみならず、民俗・風俗学や歴史研究などに渡り、広い範囲でのアイヌ学を確立させたと評価されている。「アイヌ神謡集」を著した知里幸恵は6歳上の実姉。
※3 更科源蔵:1904~1985 弟子屈町生まれで、生家は新潟県からの開拓農民。1930年に開拓農民とアイヌを描いた詩集「種薯」を刊行する。1929年から2年ほど屈斜路コタンで代用教員を務めた際、アイヌの長老などから多くの聞き取りを行い、アイヌ文化研究者としての顔も持つ。「コタン生物記」「アイヌ民話集」など、アイヌに関する著作も多数。
温泉に込めた畏怖の念と親しみ
「屈斜路湖畔の池の湯温泉には、昭和のはじめまで幣場(※4)があって、厚司(※5)にする木の皮を浸すときも、湯治のために入浴するときもここに木幣(※6)をたて、温泉の神(ヌー コㇿ カムイ)に理由を話してから入浴した。温泉は神々が何かを煮るためにあるのだから、それをけがさないように裸にはならず、女は新しい下着に着換え、男は新しい褌(ふんどし)をしめてから入ったし、湯治中は夫婦関係をたたなければならない」と、著書「歴史と民俗 アイヌ」(昭和43年5月)に書いた更科の記述を読むと、温泉を入浴目的で利用するようになったのは割と最近の話なのだと気づかされます。
相方にとっても思い出の多い場所のようで、「コタンに露天風呂や公衆浴場ができるまで、お風呂といえば池の湯。家で五右衛門風呂みたいな釜沸かしで入浴することはできたけど、水は貴重だったから思う存分お風呂気分を味わうには、やっぱり池の湯に行くことだったな。近所の子供たち何人かで、トラックの荷台に乗せられて行くのが楽しかった(←もう時効の話としてご笑納ください)。舗装された道が上の方(現在の道道52号)に整備されたから使わなくなったけど、土のデコボコ道を揺られながら…」と懐かしそうに話してくれます。土のデコボコ道というのが、トレイルルートになっている池の湯-コタン間の旧道です。
※4 幣場(ぬさば):アイヌが儀式を行った神聖な場所。
※5 厚司(あつし):アイヌ語でアットゥシ。オヒョウなどの樹皮を細く裂いて織った布。その布で作ったアイヌの衣服など。
※6 木幣(もくへい):アイヌ語ではイナウと呼び、儀式の際に備えられる祭具のひとつ。カムイとアイヌの間をつなぐ重要な役割を果たしてくれるもの
遠くからも人が来る誇らしい場所として
現在まで時計の針を進めた話になりますが、カーナビゲーションやGoogleマップで「屈斜路湖」と検索すると、どこが示されるかご存じですか? 屈斜路湖の代名詞となり得る場所は、この地にアイヌだけが暮らしていたころから、人々の生活に寄り添ってきた大切なところなのです。
カムイモシㇼ(アイヌ語で「神の国」)の住人となったフチ(「年配の女性」を意味するアイヌ語)が誇らしげに、「池の湯はね、とにかく評判が良かった。その証拠に昔からずっと、釧路とか峠を越えた北見とか、十勝の方の人もわざわざ来ていたんだよ」と笑顔を浮かべながら話してくれた表情は忘れられません。「フチたちは、木の皮を扱ったり温泉に入ったりするときは必ず、頭と足首だけが出ている下着をつけて温泉に入っていたの。大人になってから理由を聞いたら、女は他の人に肌を見せたらダメだからって」と教えてくれました。さらに、保温や毒虫をよける意味もあったらしい、という話が伝わっています。
今ではすっかり、地元住民ではない方の利用が多くなった「池の湯」ですが、皆さんに愛される温泉であることは変わりません。足湯エリアも設けられていますので、トレイルウォークで頑張ってくれている足を労わりながら、ヌー コㇿ カムイの気配を感じてみてもらえるとうれしいです。
※7 池の湯に建つ松浦武四郎歌碑:「久寿里の湖 岸のいで湯や あつらかん 水乞鳥の 水乞ふてなく」-現代語に訳すると、「屈斜路湖の岸辺で湧き出ている温泉は熱そうだ 水乞鳥(=アイヌ語で「ヲユユケ」=アカショウビンと思われる)も水が欲しいといって鳴いているように聞こえる」といったところ。現在、屈斜路湖畔でアカショウビンの姿を目にすることはまずありませんが、川崎康弘さん(日本野鳥の会オホーツク支部長・「北海道野鳥図鑑」著者の1人)にお伺いしてみたところ、「今から30~40年くらい前まで、チミケップ湖で確認されていたので、かつて屈斜路湖畔にいたとしてもまったく不思議ではない。実際にアカショウビンが好むような環境が、現在の屈斜路湖畔にも少なからずあるので、また姿を見られる可能性はある」とのこと。