カムイイピㇼマ 〜カムイが教えてくれること〜 #01 そもそもカムイとは?

文:斎藤敬子  写真:斎藤敬子、函館市中央図書館、國分知貴  編集:MKTマガジン

屈斜路コタンに暮らし、屈斜路をこよなく愛する斎藤敬子さんによる「カムイ」にまつわるエッセイ。カムイとはアイヌ語で「神」を意味します。アイヌの人々は、あらゆるものに「魂」が宿っていると考え、例えば植物、動物、火、水、道具でさえ、それらすべてがカムイ(神)なのです。感謝、共存、共生。アイヌの精神世界には、現代を生きる我々にとって忘れてはならない大切なことが詰まっているように思います。敬子さんが綴るカムイの物語にどっぷりと浸ってください。

19歳が遺した奇跡の出版物『アイヌ神謡集』

Shirokanipe ranran pishkan, 
Konkanipe ranran pishkan.

↑ちょっと声に出して読んでみてもらいたいのですが。
スムーズに読めましたか?正解発表も兼ねて、わかりやすくカタカナ表記すると、
シロカニペ ランラン ピシカン
コンカニペ ランラン ピシカン

…と、なります。

私はまず、音の響きの美しさに圧倒されました。ほとんどの人が聞きなれないであろう、これはアイヌ語で書かれた一節です。さらに、意味をお伝えすべく日本語訳をご紹介しますと、
銀の滴降る降るまわりに、
金の滴降る降るまわりに
…と、なります。

ここまでくると、もう、言い表す言葉が見つからないくらいの衝撃を受けました。私が埼玉県から北海道・屈斜路湖畔へ移住して間もなく、手にした1冊の本『アイヌ神謡集』はその後、書棚の一番目立つ場所に置かれることとなって現在に至ります。

金子みすゞや石川啄木は26歳、尾崎豊は27歳など、若くしてこの世を去りつつも、遺した作品の数々が今なお多くの影響を与えている人たちがいますよね。『アイヌ神謡集』を手掛けた知里幸惠は、最初にして最後となった唯一冊を編み出し、1922(大正11)年にカムイモシㇼ(「神の国」を意味するアイヌ語)へと旅立ちました。出版は翌年でしたので、昨年は没後100年・今年は出版後100年という節目の年でもあります。逝くのが早過ぎるとともに、わずか19歳が遺したものの大きさに驚きを隠せません。確認されている限り、アイヌ自身がアイヌ語を記した最古の出版物とされています。

音で伝わるカムイの物語を日本語へ

アイヌには、代々“語り継がれてきた”物語があります。その中に、神々が主人公となって自らの体験を語る形式のものが存在しています。この本には、狼や谷地の魔神といった、いわば自然界の神々が歌った謡=神謡=アイヌ語では「カムイユカㇻ」と呼ばれるものが13編収められています。冒頭に紹介したのは、梟の神の自ら歌った謡の始まりです。

西川北洋『明治初期アイヌ風俗図巻』(函館市中央図書館所蔵)より。「シャコロベ語り」と題された一幕。「ユカㇻ」は地方によっては「シャコロベ」とも呼ばれていたそう。ユカㇻの演者は炉の前に座り、レㇷ゚ニと呼ばれる木の棒で炉縁を叩くなどして、拍子をとりながら、節をつけ歌うように語る。このようにして神々の物語を語り継いできたのだろう。手前の人物は、内容を伝えるため和人に語りかけているようにも見える。

アイヌ語には、もともと文字がありませんでした。なので、耳で聞いてきた音を、まずはローマ字に起こし、さらにそれを日本語に訳す必要が生じるのです。彼女の祖母がユカㇻの謡い手であったこと。研究のためにやってきた言語学者・金田一京介との出会い。アイヌ語も日本語も堪能だったこと。要素がひとつでも欠けていたら、この本は存在しなかったかもしれません。すべての条件が満たされる環境に、知里幸惠という人物がいてくれたこと自体が奇跡。

結婚を諦めなければならないほど重度の心臓病を患いながら、家族の反対を押し切って上京し、アイヌ神謡集の翻訳作業を完成させたその日に心臓発作で亡くなってしまうなんて、本当にこの1冊を誕生させるためだけにアイヌモシㇼ(「アイヌの大地」を意味するアイヌ語)へやってきたのではないかと思うほどです。

序文で、彼女は書いています。

「その昔この広い北海道は、私たちの祖先の自由の天地でありました」-と。

個人的には、「春は、あけぼの…」清少納言の枕草子!、「国境の長いトンネルを抜けると…」川端康成の雪国!的に、誰もが知る書き出しの一節になって欲しいのです。岩波文庫から出版されているので、ぜひご一読を。重さ106グラムなので、トレイルハイクの荷物に加えても問題ないと思われます。

アイヌ神謡集のジャンルは何?

私は、ゆるーく民俗学っぽいことが好きなのですが、この分野において絶対に外せないのが柳田国男(※1)でしょう。彼の出発点ともいわれる『遠野物語』(※2)は、なんとなくでも耳にしたことがあるのでは? 

実は本文1ページ目に、<内(ナイ)は沢または谷のことにて、奥州の地名には多くあり> <遠野郷のトーはもとアイヌ語の湖という語より出でたるなるべし、ナイもアイヌ語なり> と書かれています。気になる方は、こちらも岩波文庫から出版されていますので、よろしければ。ちなみに、182グラムです。

そういえば、決して岩波文庫の宣伝担当ではないのですが、せっかくなので皆さまにも考えていただきたいことがあります。本好きの方はご存じかと思いますが、岩波文庫はカバーの背色でジャンル分けされています。

黄:日本文学(古典)
緑:日本文学(近代・現代)
赤:外国文学
青:思想、仏教、歴史、地理、音楽、美術、哲学、教育、宗教、自然科学
白:法律・政治、経済・社会
…といったように。

さて、『アイヌ神謡集』と『遠野物語』は、それぞれ何色でしょう?考えながら、読み進めてみてください。

※1 柳田国男:日本の民俗学者・思想家。東京帝国大学(現・東京大学)で農政学を学び、農商務省の官僚となった後、講演などで各地を回りながら地方の実情に触れるうち、民俗学的なものに関心を深めていった。その地域に根差した伝承や言葉などの収集や研究、出版活動などを精力的に行い、日本民俗学の開拓者と称される。1875年(明治8年)-1962年(昭和37年)。

※2 遠野物語:柳田国男が1910年(明治43年)に発表した代表作。岩手県遠野地方に伝わる逸話や伝承をまとめたもので、日本の民俗学の先駆けともいわれる作品となっている。冒頭から、アイヌ語由来とされる地名が多く掲載されており、風景を想像しながら読み進めるのも楽しい。つまり、遠野物語が世に送り出されるずっと以前から、この地域にはアイヌ語を使用する人たちが住んでいたことになる。

私のパートナーは屈斜路アイヌ

アイヌ語で“集落”を意味する「コタン」という言葉が、現在も地名として残っているエリアで暮らして20年近くになります。私のパートナーは、ここで生まれ育ったアイヌです。彼はアイヌ文様をデザインした木彫りやエゾシカ角などを加工した民芸品制作・販売を生業とし、山菜やキノコを採りに山を歩き回るのが大好き。とにかく、本能の赴くままに動いていたいタイプで、規則的な日々を繰り返すのが嫌いな時間自由人です。

彼の工房。雑多にも見えるが、実は計算しつくされた作業場。

一緒にいたら、私もアイヌ刺繍を制作する楽しみを知ってしまったし、山菜やキノコの写真を撮るのがおもしろくなって、出来る限り付いていくようになりました。当然のことながら、規則正しい収入は皆無ですが、2人と愛犬1匹が暮らしていければ十分でして、私はいまの暮らし方に心が満たされています。

自然界からのインスピレーションを敏感に受け取れるよう、つねに自分のアンテナを磨いておきたい。このテーブルマットは冬に、屈斜路湖の水、空、ナナカマドの実、雪が織りなす風景を見て作成したもの。

山に入るときは、「お邪魔します!」
山から出るときは「お邪魔しました!」
山の恵みを受け取ったら、「イヤイライケレ~!」(「ありがとう」を意味するアイヌ語)
キムンカムイ(アイヌ語で「山の神」=ヒグマ)の気配は素早く察知。すべて彼から教えてもらいました。

アイヌだからといって皆が皆、このような暮らしをしているわけではもちろんありませんので、私にしてみればラッキーだったといえるでしょう。

キムンクワ(アイヌ語で「山杖」)を持って進む相方。似合うでしょう?先が二股になっているのがポイントで、荷物をひっかけたり、急に飛び出してきた小動物を抑え込んだりする役目を果たしてくれる(はず)。

身近な存在だけど説明が難しい、それが「カムイ」

アイヌの精神世界を知るうえで、避けては通れない言葉が「カムイ」だと実感しています。一方で、理解が難しいのもまた、「カムイ」だと痛感しています。ここまでにも散々、「神」といってきましたが、日本語の「神」とは少しニュアンスが違います。あらゆる動物や植物つまり自然界すべてのものがカムイ…とざっくり言われることも多いのですが、それだけではありません。

今回は初回記事として「そもそもカムイとは?」とタイトルを掲げたわけですが、今回だけで語り切れるものではないのが「カムイ」なのです。次回以降も私なりに受け止めてきたカムイイピㇼマ(神のお告げ、神がこっそり教える)についてお話ししていければと思っていますので、よろしければお付き合いくださいませ。

そしてもうひとつ。
誤解を恐れずに言えば、私はアイヌのことを取り立てて持ち上げるつもりはありません。よく、“自然と共生する民族”といった表現をされることがありますが、和人(アイヌ以外の日本人)だって自然と共生して生きている人はいますし、ほとんどの人が自然と共生することが普通だった過去の時代があったはず。ただ、この天地で生きていく知恵や工夫としては、やはりアイヌの伝承を参考にすべきものが多いことは間違いありません。

「イランカラㇷ゚テ」というアイヌ語は、「あなたの心にそっと触れさせていただきます」と日本語訳されます。初めて知ったとき、私は大好きな日本語表現である「“心の琴線に触れる”と同じだ!」と感激しました。アイヌを知ることは、自分たちのルーツに思いを馳せるきっかけになるかもしれませんね。アイヌの天地で、風を受け、地を踏みしめながら、カムイの存在を身近に感じてもらえることを願いつつー。

では最後に、岩波文庫の答え合わせをしてみましょう。

皆さんの予想は、いかがでしたか?

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Writer

斎藤 敬子(さいとう けいこ)

埼玉県生まれ。2007年にオリジナルデザイン&ハンドメイドのアイヌ民芸品制作・販売を手がける「Kussharo Factory」を開設、布製品を担当する。伝統美を意識しつつ、自然界の中から得たインスピレーションをアイヌ文様で表現することを楽しみながら、手仕事に励む毎日。作り手としてだけでなく、屈斜路アイヌの精神や文化を情報発信(広報活動)することにも力を入れている。

北海道やアイヌ民族への興味は幼少期へ遡る。旅行会社を営む父親から北海道とアイヌ民族の話を聞いたことが初めのきっかけ(異なる民族がいることを初めて知る)。ある日の学校のテスト「日本は単一民族国家か複合民族国家か」の問いに、後者で答えた際、クラスで唯一間違いとされた悔しい記憶が刻まれる。「父親から聞いていたことは間違いなのか?」このことをきっかけに北海道とアイヌ民族への関心がさらに強くなる。

「いつか自分の稼ぎで北海道へ行くぞ!」そう決意しつつ、熱狂的ジャイアンツファンの少女時代を過ごし、その勢いでスポーツ記者を志望。なんとか新聞社にもぐりこんだものの、希望は大幅に逸れてサッカー関連の業務につくが、結果それも楽しく仕事に没頭。そして、休日となれば北海道に一人旅へ。仕事と北海道旅行の充実した日々を送る。

北海道という地へ導いてくれた父親が他界したのをきっかけに、自身の人生を見つめ直す中、移住を決意する。屈斜路湖畔で暮らし始めてから、勤め先の縁で、木彫り実演をする一人のアイヌと出会い、やがてパートナーとなる。彼の暮らしと彼の取り巻く環境に、幼少期の原体験が結びつく。その世界に魅せられ現在の活動に至る。

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